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別子銅山煙害事件

別子(べっし)銅山は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。別子煙害問題は栃木県の足尾鉱毒問題とともに公害の原点とされ、また、住民運動が成果をおさめた例として「米百俵」とともに記憶されるべき出来事とされている。
1893年愛媛県新居浜で別子銅山からの銅精錬排ガスによると思われる大規模な水稲被害が発生し、4村(新居浜、金子、庄内、新須賀)農民代表が愛媛県に被害を訴え精錬所に損害賠償を要求。煙害の事実について結論が得られず補償問題は延期され、農民と精錬所との間で紛争が勃発した。精錬所経営者である住友鉱業は関係官庁と学識経験者の意見を聞き、1904年に新居浜沖合約18kmの無人島「四阪島(美濃島、家ノ島、明神島、鼠島の4島からなる無人島)」に精錬所を移転。しかし、操業開始後から瀬戸内海の気流により愛媛県越智、周桑、新居、宇摩4郡で麦・稲作に被害をもたらす煙害が発生。農民と精錬所の間で賠償金支払い、産銅量制限を含む厳しい協定が結ばれた。住友鉱業はその後独自に硫黄酸化物対策の技術開発を進め、1929年、ペテルゼン式硫酸製造装置を導入し排ガス中の二酸化硫黄(SO2)の半量から硫酸を製造し、さらに1939年に硫黄酸化物をアンモニアで中和する技術(排煙脱硫技術の一つ)を導入し、煙害問題は解決した。